備忘録。元最先端のエンジニアが提唱する人間性経営学の真髄とは何か。

もう20年近く前になるでしょうか。当時船井幸雄さんが書籍やセミナーで紹介されたのが天外伺朗さんという人物でした。コンパクトディスクやロボット犬AIBOを開発した最先端エンジニアがペンネームであの世を科学的に解明した書籍「ここまで来たあの世の科学」を出したと。...

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55歳にして振り返る。青春とは何だ。そして君は青春を謳歌しているのか。

昨日はワタスの55回目の誕生日。facebookやtwitterやメールでたくさんのカタガタからお祝いメッセージをいただき、感謝感激雨あられおかきせんべいマカロン宇治金時です(意味不明・・)...

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元気があれば何でもできる70歳のアントニオ猪木のギャグは卍固めを超えていた・・

本日は早朝6時台ののぞみ早得グリーンで東京に移動し立て続けに4件の重要案件を終え今しがた京都に戻る相変わらずひかり早得のグリーンに乗り込んだもうすぐ55歳になるというのに未だにグリーンは早得しか乗る根性が無い永遠のチキン社長@堀井ですこんばんわ。...

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期間限定の井戸がある街で想ふ。運命の神様は誰かに助けられたら誰かを助けるヒトに微笑むのだ。

7月19日
「信用が無いからおたくには貸せません・・」
橋弁慶町に引っ越す時に無下に断られたテナントビル。それから数年経過後に入居を承諾してくれたのが手洗水町のオフィスです。実績を積み上げることでしか信用は得られないということですね。
引っ越しをする前の数年はやはり組織がぐらついたせいか売上も利益もほぼ横ばいの微増だったのですが、それでも徐々に成長モードにシフト。スタッフも増員したので狭いオフィスが更に手狭になり、引っ越す直前はワタスが座る場所が無く、ジプシーのように会議室や接客机で仕事をしていたのですが。
当時「30代で某保険会社の支社長をしていた頃は応接セット付きの個室があったのに、今は自分が座る机も椅子も無くなってもた・・」なんてことも頭をよぎったような気もしますが、逆に「机も椅子も無い社長の方がネタ的にはウケそうやな」と思うとそれはそれで嬉しくもありました(え?おかしい?)

新しいオフィスは喪が明けた?ような感覚と言いましょうか、ワタスだけでなくスタッフの面々もやはり嬉しそうで「ちょっと下見に行くか?」と誘うとぞろぞろついてきて「広いですね~」「綺麗ですね~」と喜んでくれたのが印象的で、その時オフィス環境が社員のモチベーションアップに繋がることを実感しました。何よりワタスは「やっとウォシュレット付トイレのビルに入れた」ことが嬉しかった訳です(笑)
で、これから順風満帆の右肩上がりが始まるかと言えば、人生はそう甘くはありましぇん。その後更に副社長と常務が当社を離れ別の代理店に行き、専務はプランナー職に戻ります・・
過去に9年間フルコミ(完全歩合)営業パーソンをマネジメントすることでそれなりの評価を得てきたワタスですが、本当の意味で会社をマネジメント(経営)することとは難易度は大きく違ったということでしょう。自己完結型の組織運営と報酬以外の目に見えない評価ややりがいがモチベーションになるチーム型組織の運営の違いを経営トップであるワタスが理解し実践できていなかったのです。ワタスは性懲りも無く優秀な経営陣たちのやる気をそいでしまったあまりにも学習効果の無い未熟者だったのです。
でもこの辺りから、これ以上貴重な戦力を喪失したくないという危機感からか、残された経営陣初めスタッフたちがもうワタスには任せてられないと奮起してくれたからか?堀井商店からの脱皮、企業化への道が本格化していきます。
人事制度をはじめとする規定作りの着手。何より心が離れないよう、プランナーさんへの配慮とは別に社員とのコミュニケーションを意識、半期に1度の社員総会を開催することにしました。そしてビジョンや理念を行動に置き換えやすくするよう「HOLOSを創る10の価値観」を策定し、一貫した経営者からのメッセージを口頭だけでなく文字に落し込み、企業風土や文化の醸成に力をいれていきました。これが功を奏したのかどうかはわかりませんが、その後業績は安定的に成長を始めてくれたのです。
ということで、もう暫くはこの手洗水町でお世話になるつもりです。これからも恐らく順風満帆なんてことは
無いでしょう。もう少し歳を取り、もう少し成功できたらワタスの歩んできたシゴト人生で学んだ教訓をちゃんと物語にしたいと思っています。その時は是非読んでやってくださいね。
ところで。
「手洗水町」の歴史と由来でもある御手洗井(みてあらいい)という井戸は、毎年7月15日の早朝に井戸が開かれ24日には閉じられる期間限定の井戸。
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一年の間で祇園祭の宵々山(7月15日)から還幸祭(7月24日)の10日間だけ開かれる井戸なのです。
ここにはむかし祇園御旅所があったそうで、祭られています牛頭(ごず)天皇に、毎日この井戸の水を霊水としてお供えしていたといわれます。1568(永禄11)年には織田信長が御旅所を移転させましたが、水質が良いので祇園祭の間は井戸を開けたそうで。
ほかにも八坂神社の本殿の下には井戸があって、御手洗井とまでつながっている…という説や、土用の日にあんころもちと一緒にこの水を飲むと、一年間病気をしない…など様々な説が伝えられていたりして。
本当に京都という街は歴史があるだけに様々な伝説に事欠きません。いつの日か必ず。ワタスは既にこの世にはいないでしょうが当社は保険業界のみならず日本、いや世界に名を残す伝説の企業になっていることでしょう。
これで一旦祇園祭に因んだ過去回想編の幕を閉じたいと思いますが。
今までたくさんのヒトタチが私に失望して私の元を去っていきました。でもその度に新しいヒトタチが救世主のように私を助けに来てくれました。どちらのカタガタにも感謝の想いで一杯です。本当は一人一人に直接会ってお礼を言うのが筋かと思いますが、根がヘタレれでシャイなのでお許しください。この場を借りまして
お礼申し上げます。いつも本当にありがとう。生かされている限り、できる限りヒトを選ばず恩返しをしていく所存です。
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山鉾巡行でフラッシュバックした起業当時の思い出2。捨てる神と拾う神は本当にいるのか。

7月18日
東京での役員を退任し京都に戻ったワタスは新しいメンバーを迎え入れるために増資による資金調達をして引っ越しをしました。それが橋弁慶町。
自分の執務スペースにプランナーブースや会議室も設えました。
これから1年で20人の規模にしなければ資金は枯渇する。元々マネジメント畑のワタスは保険販売に注力せずにリクルートに重点を置き数字を組み立てました。元々描いたのが規模拡大モデル、顧客接点を持つ流通の川下がイニシャチブを握るという保険流通の変革がコンセプトだったからです。
当初の予定通りほとんど給料は取らなくても資金はどんどん減っていきました。
「堀井さん、このまま行けば来月には口座のお金が無くなりますよ」
「・・・」

ギリギリの所で20人を超え、なんとかスケールメリットが効きだして資金は枯渇せずに済みました。その後は比較的に順調に規模拡大が進みだし「京都に急成長している代理店がある」という噂も業界に広まりだしました。
調子がイイ時は、この勢いがずっと続くものだと勘違いするのがアマちゃんですね。更に資金を調達し、勢いに任せてやろうとしていたことを一気に始めました。同じビル内で広さを3倍くらいに拡大、レイアウトもデザイナーに依頼し、什器備品も刷新、ホームページもお金を掛けて大幅なリニュアル。顧客を会員化するHOLOSクラブを立ち上げ、ロンドンの再保険会社と契約して自家共済まで作り、何より自社開発の顧客管理システムに巨額の投資をしました。必ず乗合代理店の顧客管理、顧客サポートの充実を図ることが事業としての差別化になり、プランナーにとっても既契約者が増えてきた時には無くてはならないツールになるはず。どれも起業準備の時から計画していたことでした。
ただ、このあたりから社内の様子に変化が生じ始めます。この頃、更に私が営業ハウツー本を出版、研修講師のオファーがどんどん入りだし、社長である私が企業研修で本社を不在にすることが増えて行きました。
そしてある日、一気に組織が崩壊。
そんな組織体制なんかできていないのに、足元もまだまだ固められていないのに、コンセンサスも取らずに1人で走りだしていたのでしょう。まったく未熟者のアホ社長です。
当時の主要メンバーの多くが当社を離れ独立、たくさんのプランナーもそちらに移籍して行きました。それに伴い本社事務所は一気に縮小を余儀なくされ、せっかく揃えた什器備品も他のオフィスに送り、入りきらないモノは処分、私のデスクは無くなりました。
自分のことが情けなくて涙が止まらない。今まで経験したことの無かった苦い思い出です。
今でも覚えていることですが、書棚の本も置けなくなったので少額でもイイので引き取って貰って換金しようと思い、友人の古本屋を経営する社長に事情を話し取りに来てもらいました。夜中に一人で背中を丸めて本を整理しているワタスを見てその社長はこう言ってくれました。
「あんなケーちゃん、捨てる神あれば拾う神在りて言うやろ。これはな、残ってくれた仲間にも感謝せんとあかんけど、ケーちゃんを捨ててった奴らにも感謝せんとあかんちゅうことや。捨てていった奴らも神さんや思て感謝してたら拾ってくれる神さんもまた来るわな。元気だしぃや。」
以来、当時の自分自身の至らなさに対して申し訳ない気持ちこそあれ、当社を離れていったメンバーのコトを悪く言う気は一切ありません。当社が危ないという風評も立ち、精神的には辛い時期がその後数年続きましたが、残って支えてくれたスタッフやプランナーさん、励ましてくれた経営者仲間たちには心の底から感謝しています。
五条大橋で牛若丸と弁慶が戦っている姿を表している橋弁慶山。
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牛若丸こと源義経は、優れた戦略家であり、君主を助けながらも非業の死を遂げたことで判官贔屓という言葉を生みだし、また後世に義経不死伝説や義経ジンギスハン説など様々な伝説を残した個性的な人物ですが、この橋弁慶町のビルにいた頃の出来事はひょっとしたら影で牛若丸が支えてくれたのかもしれません(妖しい・・)
でもやはり自分を強くするのは自分の体験しかないということ。その体験を他責するのではなく、どう自分ゴトとして受け止めて、どう次に活かすかで自分の未来が決まるということではないでしょうか。
(難局を何とか乗り越え、業容拡大に伴い引っ越すことになったのですが、実はこの烏丸通りに面した銀行さんのビルは当初信用が無いので入居を断られたビルでした)

手洗水編に続く(かどうかは未定・・)
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