山鉾巡行でフラッシュバックした起業当時の思い出2。捨てる神と拾う神は本当にいるのか。

7月18日
東京での役員を退任し京都に戻ったワタスは新しいメンバーを迎え入れるために増資による資金調達をして引っ越しをしました。それが橋弁慶町。
自分の執務スペースにプランナーブースや会議室も設えました。
これから1年で20人の規模にしなければ資金は枯渇する。元々マネジメント畑のワタスは保険販売に注力せずにリクルートに重点を置き数字を組み立てました。元々描いたのが規模拡大モデル、顧客接点を持つ流通の川下がイニシャチブを握るという保険流通の変革がコンセプトだったからです。
当初の予定通りほとんど給料は取らなくても資金はどんどん減っていきました。
「堀井さん、このまま行けば来月には口座のお金が無くなりますよ」
「・・・」

ギリギリの所で20人を超え、なんとかスケールメリットが効きだして資金は枯渇せずに済みました。その後は比較的に順調に規模拡大が進みだし「京都に急成長している代理店がある」という噂も業界に広まりだしました。
調子がイイ時は、この勢いがずっと続くものだと勘違いするのがアマちゃんですね。更に資金を調達し、勢いに任せてやろうとしていたことを一気に始めました。同じビル内で広さを3倍くらいに拡大、レイアウトもデザイナーに依頼し、什器備品も刷新、ホームページもお金を掛けて大幅なリニュアル。顧客を会員化するHOLOSクラブを立ち上げ、ロンドンの再保険会社と契約して自家共済まで作り、何より自社開発の顧客管理システムに巨額の投資をしました。必ず乗合代理店の顧客管理、顧客サポートの充実を図ることが事業としての差別化になり、プランナーにとっても既契約者が増えてきた時には無くてはならないツールになるはず。どれも起業準備の時から計画していたことでした。
ただ、このあたりから社内の様子に変化が生じ始めます。この頃、更に私が営業ハウツー本を出版、研修講師のオファーがどんどん入りだし、社長である私が企業研修で本社を不在にすることが増えて行きました。
そしてある日、一気に組織が崩壊。
そんな組織体制なんかできていないのに、足元もまだまだ固められていないのに、コンセンサスも取らずに1人で走りだしていたのでしょう。まったく未熟者のアホ社長です。
当時の主要メンバーの多くが当社を離れ独立、たくさんのプランナーもそちらに移籍して行きました。それに伴い本社事務所は一気に縮小を余儀なくされ、せっかく揃えた什器備品も他のオフィスに送り、入りきらないモノは処分、私のデスクは無くなりました。
自分のことが情けなくて涙が止まらない。今まで経験したことの無かった苦い思い出です。
今でも覚えていることですが、書棚の本も置けなくなったので少額でもイイので引き取って貰って換金しようと思い、友人の古本屋を経営する社長に事情を話し取りに来てもらいました。夜中に一人で背中を丸めて本を整理しているワタスを見てその社長はこう言ってくれました。
「あんなケーちゃん、捨てる神あれば拾う神在りて言うやろ。これはな、残ってくれた仲間にも感謝せんとあかんけど、ケーちゃんを捨ててった奴らにも感謝せんとあかんちゅうことや。捨てていった奴らも神さんや思て感謝してたら拾ってくれる神さんもまた来るわな。元気だしぃや。」
以来、当時の自分自身の至らなさに対して申し訳ない気持ちこそあれ、当社を離れていったメンバーのコトを悪く言う気は一切ありません。当社が危ないという風評も立ち、精神的には辛い時期がその後数年続きましたが、残って支えてくれたスタッフやプランナーさん、励ましてくれた経営者仲間たちには心の底から感謝しています。
五条大橋で牛若丸と弁慶が戦っている姿を表している橋弁慶山。
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牛若丸こと源義経は、優れた戦略家であり、君主を助けながらも非業の死を遂げたことで判官贔屓という言葉を生みだし、また後世に義経不死伝説や義経ジンギスハン説など様々な伝説を残した個性的な人物ですが、この橋弁慶町のビルにいた頃の出来事はひょっとしたら影で牛若丸が支えてくれたのかもしれません(妖しい・・)
でもやはり自分を強くするのは自分の体験しかないということ。その体験を他責するのではなく、どう自分ゴトとして受け止めて、どう次に活かすかで自分の未来が決まるということではないでしょうか。
(難局を何とか乗り越え、業容拡大に伴い引っ越すことになったのですが、実はこの烏丸通りに面した銀行さんのビルは当初信用が無いので入居を断られたビルでした)

手洗水編に続く(かどうかは未定・・)

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