天皇誕生日の今日。
映画『永遠のゼロ』を観てきました。以前小説を読んだ時とても感動し涙した作品だったのでだいたいのあらすじは理解していたのですが、主人公の宮部久蔵役を岡田准一がどう演じてくれるのかにも興味があり上演早々にどうしても行きたかったのです。
こう見えても?ワタスは戦後生まれなのですが、もう20年以上前に亡くなった父はバリバリの戦中派で。基本家族には寡黙な父でしたが、それでもたまに戦争中の話しをしてくれました。ボルネオ島の首狩り族の所に駐屯していた話しや昔近所に住んでいた戦友のSさんが鉄砲をボートから落して上官にボコボコにされた話しとか。母も東京生まれの空襲経験者でした。「B29が空一面に現れて焼夷弾をバラバラと落してきてそれはそれは怖かったのよ」と40年以上京都で暮らしていたのになぜか最期まで関東弁だった母を想いだしました。どちらかが戦争の犠牲になっててもおかしくなかった時代ですからワタスが今この世に生まれたのも考えようによってはラッキーと言えるのかもしれません。
映画館には結構年配のカタガタも来られており、たまたま私の左横に座られたのも80歳くらいの老夫婦。大柄のご主人がドカッとコートのまま座られ、いきなり共有スペースの?肘掛を占領されその肘掛の先端に設置してあるドリンクホルダーに入れてあった珈琲すら取り出すのが困難な状況だったのですが、ご年齢から推察して「このカタは戦争経験者でそれなりの想い入れを持ってこの映画を観に来られたのかもしれない」と思うと敬意を表さずにはいられませんでした(決してビビったわけではありません)
で、あらすじや顛末は小説や映画を観てのお愉しみということにするとして。
ワタスが節々のシーンに涙しながら感じたことは本当に戦争の無いこのタイミングに日本に生まれてよかったなというコトです。特攻では数千人の若者が尊い命を日本の為に捧げました。第二次大戦の日本の死者は約310万人。世界中では数千万人の犠牲者が出たのです。
タラレバの話しをしても仕方ありせんが、もし戦争が無かったらビジネスや教育や文化やスポーツや芸術の分野で大活躍したヒトもおられたことでしょう。もちろん目立った活躍はしなくても倖せな家庭を築かれ平穏無事に生涯を送られたヒトは数知れずおられたことと思います。
そう思えば今の時代に生まれたことに感謝せずにはいられません。ご飯があって当り前、会社があって当り前。学校に行けて当り前、家、クルマ、外食、携帯電話、カラオケ、クリスマス、お正月、そして命。今ワタシタチがあって当り前だと思ってることは実はこの国、このタイミングを僅かでもずれていたら当り前では無かったのです。
そう考えれば今この時代この国に生まれたことはまさにラッキーだということになります。だとすれば、そのラッキーを無駄にしてはいけませんよね。ひょっとしたらこの命は10億円の宝くじより価値があるかもしれないのです。せっかく当たった10億円を使うのがもったいないと普通預金に置いておいても何の価値も無いように、せっかくこの世に授かった命は多少リスクがあっても有効に、世のため人のために精一杯使おうではありませんか。
ところでこの小説のあとがきは故児玉清さんが〆られています。そのフレーズの一部を引用しますと。
『涙の流れ落ちたあと、僕の心はきれいな水で洗われたかのごとく清々しさで満たされた。ただひたすら、すべての責任を他人に押しつけようとする、総クレイマー化しつつある昨今の日本。利己主義が堂々と罷り通る現代日本を考える時、太平洋戦争中に宮部久蔵のとった行動はどう評価されるのだろうか。男が女を愛する心と責任。男らしさとは何なのか。愛するとは何なのか。宮部久蔵を通して様々な問いかけが聞こえてくる。』
最期は米軍の何千発もの対空砲と機銃弾を潜り抜け、上空から真っ逆さまに甲板に体当たりして絶命した宮部小隊長。もし彼が無事戦地から生還していたら、愛する家族の元へ戻れていたとしたら。遺恨も何もなくただ命の尊さ、生きている有難さを噛みしめながら聖なる夜を向かえていたことでしょう。
愛には国境も時間もありません。そう、愛は時空を超えていくのです。でもそれは何も無い=0(ゼロ)ではなく、エネルギーで満たされていてどちらにも偏らない状態、決して相対するものでもなく、いつまでもエゴが無い状態のこと、つまり永遠の0(ゼロ)=愛なのです。
明日はイブですね。愛するあなたへメリークリスマス。