鳥羽の大石

5月23日
週末の散歩コースは。
京都南部の鴨川、天神川、桂川が合流する堤防で。
まさに鳥羽伏見の合戦があった大激震地のど真ん中。
いつも歩きながらに。
「このあたりで日本が近代化に向かうきっかけとなった歴史的戦争があったんやにぃ。」

なんて思いを馳せながら。
風の音や水のせせらぎ、鳥のさえずりなどをBGMにスタコラサッサと歩いておりますあせあせ(飛び散る汗)
更にこのエリアには。
鳥羽の大石と言われる。(1個の重さ約6トン)
謎の大石が鎮座しております。
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一説によれば1662年(寛文2年)5月京都を中心に大地震が発生し。
そのとき二条城も大被害を受け建物、石垣の修理を行った記述が古文書に記載されていて。
 当時、この辺り(下鳥羽三町付近)の鴨川に「鳥羽の港」があり京への要の港として栄えていたらしく。
この大石も二条城の城郭石材として瀬戸内の石切り場から水運で鳥羽の港へ、そしてここで陸揚げされて、修羅などに乗せて陸路二条城へ運ばれるものが、途中何らかの原因で川底に沈み、現在まで川底に眠っていたんだとか。
二条城の石を調査したところ、石質・寸法・くさび跡「矢穴痕」などが城門の飾り石に使用されているものと、この大石とが大変良く似ていることが判明し、その当時の残石だと言う説が有力だそうです。

よくお城の石垣を見たら、「よ~こんな大きい石、誰が運んできて、どんなして造ったんやろなぁ」なんて思ってたんですが。
お城造るのに一体何人がどのくらいの時をかけていたのでしょうね。
でも権威の象徴である城とか古代の遺跡を残した文明は滅びていてバッド(下向き矢印)
偉くなってきて、必要以上にその力を誇示しすぎたら。
恨みや嫉妬の力が爆発してむかっ(怒り)
消え去る運命を辿るようになっているのでしょう。
(あの財団法人の親子も、いたるところに土地建物の痕跡を遺していますし・・)
この大石を運んでいたヒトタチも。
「もうやってられっか、こんな重いもん運ばせやがってちっ(怒った顔) もう捨てて国に帰ろうぜ!」ってキレちゃったのかも。

将来当社が今以上に大きくなっても。
お城のような権威の象徴(今なら自社ビル?)など造らずに(ってそもそもできるんかいパンチ

ワタシはといえば。
いくつになっても、隣のヒトのラーメンの汁をいただくような。
驕らない(ケチということではなく)等身大の親父をココロがけていこう手(パー)
(一生身長は大きく見せますが・・)
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