告白。実はワタス、癌宣告を受けました。vol.10
告白。実はワタス、癌宣告を受けました。vol.10

前回の振り返り

実は今週のマッキー堀井は少々落ち込んでいます。

あ、病状が急激に悪化したとかそういう訳ではありません。もちろん末期ガン宣告を受けた時は人生最大の落ち込みでしたが、その時の落ち込みとは感覚が少々違います。末期ガンの場合はあくまで自らのみの問題ですが今回は落ち込むきっかけになった自らの行動によるアクシデントとそのお相手の存在があるからです。

ワタスは良いか悪いかわかりませんが、癖として「起こったこと」に対する「意味付け」をしてしまいますし、基本すべからく「自責」でモノゴトを考えよう心がけているので、そのアクシデントにおいても、様々な朝からの予定していた行動のズレによる数秒の出来事がそのアクシデントを招いてしまったことに落ち込んでいるのです。具体的なことはお相手がいることなのでここでは書けませんが、改めて日々の自らの行動を戒めたいと思います(よって今回は自省の意味を込めてツカミネタは書きません・・)

さて。

前回はガンの確定診断と同時に、今後の治療方針も確定し、仕事を中心とした自らの身の振り方を決めていくフェイズに差し掛かったところまででした。

告白。実はワタス、癌宣告を受けました。vol.9

当面の課題は、何としてでも自分の身体にできたガン細胞を消滅させること、そしてその間の仕事をどうするかという2つでした。

それでは、vol.10の始まりです。

治療体制における2つの選択肢

今の会社は42歳の時に僕が1人で立ち上げた。起業するには決して早い方でもなく、むしろラストチャンス的な想いの方が強かった。その後現在に至るまでは決して順風満帆とは言い難い20年だった。特にここ数年は保険業界の大変化に伴い乗合代理店という形態に逆風が吹いた。委託型募集人を全員雇用にすることに伴う膨大なコスト増、法改正による体制整備義務に基づくオフィス環境の整備や人員体制にも相当な投資を余儀なくされ、もはや個人商店の延長で凌げる業界では無くなっている。

そんな時代背景もあり、株式を公開し、パブリックカンパニーを目指そうと外部から資本も調達し、ステークホルダーは複数社存在していた。今ではホールディング(純粋持ち株会社)の下に事業会社が4社、社員数は350名を超えていた。僕は持ち株会社の代表取締役社長を筆頭に、会長職を2社、社長職を3社、そして乗合代理店を束ねる協会の理事長にも任命されていた。

ここでの大きな考え方は2通りだった。1つは病気であっても自宅療養なので治療しながら今まで通りの業務を行うこと。投薬治療をしながら今まで通りのペースで働いて、それでダメならそれまでという考え方だ。今まで通りというのは基本月~金は朝から出社、ほぼ週1ペース、ここ10年は毎年50回以上を京都東京間を往復していた。その為週1~2泊は外泊で夜の大半は会食が入り、帰宅平均は22時~23時くらい。たまに20時台に帰ろうものなら妻は「あんた熱でもあるんか?」と驚いた。会食が無ければそれから夕食で就寝平均は1時くらい。土日はたまに研修講師や保険の保全はあるものの、基本休み。ただ資料作成やブログ執筆でだらだらと常に仕事はしているという生活。これが過去20年のパターンであり、24時間仕事のことが頭から離れることは無かったし、それを顕在的には苦通だと感じたことも無かった。

健康には人一倍気を付けていた。自ら予防医療診断士の資格を取得し、食事内容と量にも気を使い、家にいる時は毎晩ヘルスメーターに乗り体重と体脂肪をレコーディングしていた。理想体重を500グラム超えれば、翌日の食事で元に戻すという徹底ぶりだった。因みに体年齢は46歳と実年齢より15歳若く、10年近く加圧トレーニングにも毎週通い、自宅でも軽いトレーニングを心がけていた。

それでもガン、それも末期ガンと宣告される状況になったと言う事は、「この20年のライフスタイルの何かがおかしかったのではないか」と推し量らざるを得なかった。

もう1つの選択肢は当面は治療に専念するということだった。時を同じくしてコロナの猛威が世界に広がりつつあり、3月29日にはあの志村けんさんが死亡、世間は死の恐怖を自分事として捉えつつあった。

考察。コロナショックの時代を活き抜く新財産三分法とは。

コロナ対策も兼ねながら暫くは在宅療養に専念し、だらだら治療を続けるのではなく、集中して1日でも早い回復を目指すこと。これが2つ目の選択肢だった。

松田優作のように仕事の手を緩めずに、そのまま逝ってしまうというある意味潔い選択と、ちょっとかっこ悪いけどここは仕事から一旦は離れて治療に専念するという選択。そのどちらかを幹部と話し合いながら決めようと思っていた。

松田優作☆40歳で逝ってしまった彼の死因はガンだったんです ...

それともう1つ。

末期ガンという現実をどこまでの人に開示するか、という選択をする必要があった。前者であれば、特に開示する必要もない。後者であれば少なくとも社内開示の必要はある。

緊急対策会議招集

僕は確定診断を主治医から聞いたのち、すぐに会社に戻り、緊急で役員を招集した。もちろん目的はガンの確定報告と、それに伴う今後の方針を決めることだ。

「やっぱり俺、ガンやったわ。確定や。それも既に結構転移してた。肺だけやなく、リンパ、副腎、骨にも。正真正銘のステージ4。末期やったわ・・」

「そうですか・・困りましたね・・」

幹部らもそれなりの覚悟はしていたはずだ。逆の立場に立てば容易に想像できるが、肺だけではなく他臓器やリンパにまで転移していると聞いたら「相当ヤバい」と思って当然だ。僕は敢えて事務的な確認から入った。

「これって、これってやっぱり主要株主には報告せんとあかんかな?」

「そうですね。投資契約に重要事項は事前に報告すると書いてあるところは。4社ありますね。」

「そうか。やっぱり重要事項になるわな(笑)」

「はい。」

「それって、ひょっとしたら俺が死ぬかもしれんと判断して、株を引き上げるとか言われるかな?」

「それは言ってみないとわかりません。」

「そらそうやな。」

いずれにせよ報告はするつもりだったので、それなら早く伝えて判断を聞くしかないと言う事になり、私は2社に、残りの2社は2人の役員がそれぞれ報告することになった。資本の問題はそれからだ。それより中のオペレーションについてどうするか、それが本題だった。

その場の雰囲気も確かめながらではあったが、私の答えは何となくではあるが固まっていた。人間ドックの再検査で恐らくガンだと言われて以来、その「意味付け」については幾度となく内省していたからだ。

ここは自らが何かを変えないと治らない・・ガンは僕に変容の必要性を示唆しているのではないか・・

そんなメッセージのような気がしてならなかったのだ。

「基本暫くは在宅ワークをしながら治療に当たりたいと思ってる。迷惑をかけるかもしれんけどえーかな。」

幹部たちも快諾してくれた。

「その代わり、末期ガンになったことで、俺、今までとは違う価値を出せることがあると思ってんねん。」

~続く~

起こった現実を「意味付け」ることへの個人的価値観

起こった現実に対して、「意味付け」をすることは人生にとって必要なことなのでしょうか。

例えば朝会社に行こうと道を歩いていたら突然頭の上に鳥の糞が落ちてきたらどう思いますか?恐らくその現実に対して「クソッ!今日は朝からツイてないわ!!」と思う人が多いでしょう。これはその時の感情が「くそ!」(怒り)で、意味付けは「今日という日は付いていない」になります。意味付けとは、「この現実は僕にとってどういう意味があるんだろう」と考えることです。朝から頭に鳥の糞が降ってきて嬉しい人はいないでしょう(笑)ただ、もしこれを無理やり意味づけるとすれば「ツイてない」の他にどんな意味付けが考えられるでしょうか?(意味付けのトレーニングです)

 

例えば、時間が始業時間ギリギリであれば、「これはもう少し早く起きて余裕を持って出社した方が仕事が捗ってイイぞという神の思し召しに違いない。明日から30分早く行動しよう。」と意味づける。

もしくは、「今日は朝からウンが付いてる。これをネタにしたら会社でもウケるに違いないので人気者になるチャンスだ!早速出社したらこのネタで皆を笑わせよう。」と意味づける。

この「意味付け」により、取る行動が変わります。これは、心理学者アドラーのABC理論に近い考え方です。ABC理論では、「人は見えている世界をどう受けとっているか、その受けとり方で見ている世界は違う」と考えます。まったく同じ場所で同じ経験をしても、人はそれぞれ異なった受け取り方や感じ方をしているため、ある人は喜び、ある人は悲しむといった違いが生まれます。この物事の受け取り方である「A:出来事」に対して「C:結果」が決まるのではなく「B:信念」(受け取り方)によって結果が変わるという考え方がABC理論です。

abc理論

また、アドラーという心理学者は、「人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が「意味づけ」した世界に生きている」という理論を展開しました。同じ経験をしても「意味づけ」次第で世界はまったく違ったものに見え、行動も違ってくると。アドラーは、

『いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、「経験に与える意味」によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。)』

と言っています。

では豊かな人生を送るには、すべての出来事にポジティブな「意味付け」をした方がいいのでしょうか。一般的な思考習慣としては、常にネガティブに受け取って、ネガティブな言葉を発信し、常に不満を溜めながら生きるよりは、何事も常にポジティブに受け取り、前向きな発言を心がけ、何かの行動に繋げていく人の方が運を引寄せ、結果豊かな人生を歩めそうです。

ただ、あらゆる出来事を無理やりポジティブに意味づけるということは、実は不安や怖れの裏返しでもあります。私自身も今までずっと不安や怖れを潜在意識に押し込め、むしろそれをエネルギーとしながら顕在意識でポジティブなスタンスを取り続けることでずっとがんばってきたようにも思うのです。実はこの潜在意識と顕在意識の乖離を無くしていくことが本当の意味での豊かな生活なのではないかと。私のように身の回りの出来事をポジティブに意味づけて、行動するようなタイプはむしろ弱いタイプで、真に強い人は、全ての出来事を何も判断せず淡々と受け流しながらノーストレスの生きかたができる人ではないかと思うのです。

結局のところ、「意味付け」することが良いか悪いかの自分でも判断はできません(笑)まぁ、時と場合によりますが、自分の頭で考えて「意味付け」をするのではなく、何かのメッセージが直観的に降りてくるのが理想ではないでしょうか(知らんけど・・)今はとにかく答えを左脳的に考えて導き出すのではなく、直観的なものは、そこに神様か守護霊さんかハイヤーセルフかサムシンググレートからかはわかりませんが、現世にはいない応援者からのメッセージが隠されているのではないかと思ってしまうのですよ。その要諦は、自分自身が直観を受け取り、時には交信できるアンテナをどう立てれるかですね。それが立てられれば、自身が宇宙の中でどんな使命を持って生まれてきたのかがわかり、人生や行動に迷いがなくなるのかもしれません(この話はいずれまた・・)

心理学を飛び越えて妖しいスピリチュアルな話しになって来ましたが・・

今コロナウィルスによる死への怖れを抱いたことで価値観が変容する人が増えていると聞きます。私はそれに加えて末期ガンによる死の恐怖が上乗せされました。これで価値観が変容しなければ普通の人間ではありません(笑)いきなり末期ガンと宣告された意味。なぜ毎年の人間ドックでは見つからずいきなり末期だったのか。そこに天からのメッセージが隠されている。私には霊感というものが全くありませんので、我こそは真の霊能力者だと自負する方に一度この辺りをじっくりレクチャーいただきたいと思っております(笑)

 

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