告白。実はワタス、癌宣告を受けました。vol.13
告白。実はワタス、癌宣告を受けました。vol.13

前回の振り返り

とうとうコロナウィルスの感染者が第2波の様相を呈してきましたね。特に東京では3日連続で感染者が200名を超えてます。せっかくのGoToTravel(トラベル)キャンペーンもこのままでは GoToTrouble(トラブル)キャンペーンになりそうです。そんな中、今週も2日間決死の覚悟で東京に行っておりました。社員からは危ないのでとっとと帰れと追い返されそうな勢いでした。京都本社でも重要会議にはリアルに出席もしますが、その時も三密状態を心配して早く家に帰れと追い返されます。今週はグループ会社でアクシデントが起こり、急遽その本社にも顔を出したりしもしました。先ほどもリモートの打合せをしたのですが、「ちょっと最近働きすぎじゃないですか」と諭されたりもしました。

みんな病人のワタスに優しいです。

健康な時に邪魔もの扱いされれば自身の存在を否定されたような気持ちになって拗ねたり凹んだりするかもしれませんが、今はそんな社員達の優しさをただただ有難いと思えます。誰一人として病気になりたいと思う人はいないでしょうが、病気になって改めて気づくことも沢山あるのも事実ですね。宇宙は目に見えない大きな愛でできている@末期ガンのマッキー堀井ですこんにちわ。

さて。

前回は在宅ワークを兼ねた在宅治療が始まり、抗がん剤の服用だけではなく、自宅でできる民間療法や生活改善にも取組みだしたところまででした。

告白。実はワタス、癌宣告を受けました。vol.12

ではでは、vol.13の始まりです。

恐れていたことが現実に

大学病院の主治医には面と向かってガンは治らないと言われた。腑に落ちないまま自分なりにも調べてみると、確かに標準ガン治療においてⅣ期ガンは治療不能とされているらしい。抗がん剤でガンが治ることは無く、増殖を抑制するだけだと。更に分子標的薬の特徴として、「分子標的薬は、対象となる標的(ドライバーがん遺伝子と呼ばれるような強力にがん化を起こす遺伝子産物)を有するがんに対しては、非常に高い効果を示す一方で、治療を続けていくうちに耐性腫瘍が生じることが問題となっており、その耐性機構、耐性克服のための治療法開発が強く望まれている。」とも書いてある。これが主治医が、ざっくりまとめて「あなたのガンは治りません」と言い放ったことなんだなと改めて理解した。

それでも自分は何としてでも治したいと思っていた。いつか耐性を持つかもしれないが、個人差はあるだろう。それに耐性を持つ前に副作用が出ないためにも免疫力をつけないといけないと強く思っていた。最も主治医はその免疫力ですら否定的だったのだが。

それでも僕は本やネットから調べた情報を元に、様々な取り組みを始めた。体調は決して悪くは無かった。しいて自覚症状と言えば、人と喋り始めたときや温度差がある外に出た時に少し咳が出る程度。これも長く続くわけでは無いので、それが肺がんの症状かどうかもわからない程度だった。

夜は22時台に寝るようにしたので、その分朝はいつもより早く6時には目が覚めた。それから1時間程は水素を吸入しながらまったり過ごす。瞑想をする時もあれば新聞を読むときもあった。食事は通勤時間が無い分、それからゆっくりたっぷり取ることにした。ガンは正常細胞のように酸素を使わず、ブドウ糖を取り込んで分裂増殖するので、基本甘いものはNG。炭水化物は糖に分解されるので、白いご飯やパンもNG、主食は玄米か全粒粉パンに変えた。飲み物は小林の水とその水でいれたお茶だけにし、大好きだったコーヒーも暫くは封印することにした。

僕はスタバのヘビーユーザーだったのでこれは結構辛かった。毎日コンスタントにマイボトルを持参しては2~3杯は飲んでいたからだ。塩分もガンには良くないので味付けは必然的にかなりの薄味に。牛肉や豚肉も乳製品も血液を酸性化するので基本食べないことにした。これは増殖のメカニズムとして、ガン細胞はその細胞の周辺環境を酸性化することで活動、成長しやすい環境を整えているらしいからだ。

「何を食べるか」より、まずは「何を食べないか」を決めることにしたのだ。

お風呂も今まではかなり熱目の温度が好きだっのだが、熱い風呂は交感神経を刺激するので、副交感神経を優位にし、リラックスするためにぬるめの温度に入ることにした。そして水素風呂で皮膚から水素を吸収させながら、更にリラックスするために浴槽の中で瞑想をすることにした。瞑想時に使うマントラ(呪文のようなもの)は「ホ・オポノポノ(昔からハワイに伝わる問題解決法)」にした。

これは、「ありがとう。愛してる。ごめんなさい。許してね。」という4つの言葉をただ繰り返すというシンプルな瞑想で、潜在意識をクリーニングするのに有効だと言われている。教えのベースには「今、目の前で起きている現実は100%すべてが自分の記憶(潜在意識)が現実化したものである」というもので直観的にこの瞑想が今の自分に必要なのではないかと思ったのだ。日常の風景はかなり変化を余儀なくされたが、それは死と引き換えのことなのである意味当然だった。

「今日も副作用も出ずに無事平穏に過ごせました。有難う。」

当り前の日常がガンをきっかけにして有難い日常に変わっていた。

そう心から思える日を数えて11日目の4月17日。その日はコロナ禍の中ではあったが東京に行く日だった。朝が早かったのでいつものようなゆったりとした朝食ではなく、そそくさと食べようとしたときに、なぜか食欲が無かった。ただ、急いでいたこともあり、あまり気にせず6時台の新幹線に飛び乗った。

そしてその日の夕方。日常の取組みの甲斐なく、東京で吐き気と発熱に襲われた。

これはコロナか副作用かどっちだ

4月18日。ムカつきと熱が下がらないまま朝を向かえた。洗面所に行って鏡を見ると胸全体にブツブツと湿疹が出ている。抗がん剤タグリッソの副作用で予め言われていた症状だ。

どうやら抗がん剤の副作用が出始めたようだ・・

食欲も無いまま熱も下がらず、仕方ないので夜は解熱剤を飲むことにした。すると大汗をかき、朝には熱は下がっていた。

4月19日、日曜日。熱が下がったのはいいが今度は薬が効きすぎたのか体温が極端に低い。34度5分から上がらないのだ。さすがに心配になってきたので日曜日でも対応してくれている大学病院に電話をかけることにした。すると緊急外来で診てくれるというのですぐに行くことにした。世間はコロナ感染によるパンデミック下。緊急外来では完全防護服を装着した看護師さんと、主治医ではない休日担当のドクターが対応してくれた。症状を告げた後に、まずは血液検査とCT検査を、そしてPCR検査も行うことになった。

「堀井さん、お待たせしました。検査の結果が出ました。まずはCTですが・・」

「はい」

緊急の場合はCTも血液もすぐに結果がだせるのか。さすが総合大学病院やな・・と思った。

「肺の画像だけ見ればコロナではないようですね。」

「画像を見ればわかるんですか?」

「はい、コロナの場合はもっと全体に影があります。もちろんPCR検査で診ないと駄目ですが。」

「あ、やはりそうなんですね。」

「それと、腫瘍は当初から少し小さくなっているように見えますね。」

「え?ほんとですか?」

「はい、見た感じではそう見えます。ただ私は専門ではないので詳しくは主治医の先生に診て貰ってください。」

「はい、わかりました。」

ちょっと元気になった。

「それと、血液ですが・・肝臓の数値が急上昇していますね。」

「え?そうなんですか?」

「はい。取り合えずタグリッソを中断しましょう。主治医の先生には私から伝えますので。次の診察日はいつですか?」

「27日です。」

「そうですか。では少なくともそれまでは止めてください。その後は主治医の指示に従ってください。それと、念のためPCR検査もしておきましょう。」

「はい、わかりました。」

PCR検査が始まった。鼻に綿棒を突っ込まれる。インフルエンザの検査のようなものだ。次は唾液。痰もできたら採取したいとのことだったが痰は出なかった。

「この結果でコロナやったら俺も終わりやなぁ・・」

付き添いの妻に思わずそう呟いた。するとその言葉を担当の先生が聞いていて、

「終わりじゃあありませんよ、堀井さん。そうなった時のために我々がいるのですから。もしそうであっても我々がちゃんと対応しますので大丈夫です。」

「あ、そうですね。ありがとうございます!」

緊急外来で対応してくれた、たまたまのドクターのその優しくも熱い言葉に少し感動した。

大学病院には色んなタイプの先生がいるんだな・・そう思った。

「PCR検査の結果はすぐにはわかりません。もし陽性ですと明日には保健所から直接電話が入ります。入らなければ陰性だと思ってください。それと、解熱剤が聞きすぎると低体温になる可能性がありますので、よかったら弱めの解熱剤も処方しておきましょうか。」

「はい、そうしてください。」

その日は夜にまた発熱。翌日は保健所から電話がかかってこないことを祈り続ける1日になり、そしてそれからの数週間は人生で経験したことのない副作用の波状攻撃を受けることになる。

~続く~

人体の耐用年数についての個人的見解

いきなりですが、自動車の耐用年数は一般的にどれくらいか知っていますか?

自動車の耐用年数の目安となる大きなポイントは「使用年数」と「走行距離」の2つです。2017年時の日本国内の自動車平均使用年数は12.91年でした。ちなみに2008年は11.67年、1998年は9.44年でしたので、昔に比べてかなり使用年数が伸びてきているということが分かります。走行距離については、廃車される時点で走行距離が何万kmになっていたかに関するデータはないので、多くの人が耐用年数に達したと考える走行距離がどれほどかというのは分かりません。ただ、一般的には10万~15万kmまでいったら耐用年数に達した、車の寿命がきたと考える方が多いようです。

まとめると使用年数が10~15年、もしくは走行距離が10万~15万kmが自動車の耐用年数の目安ということになります。

因みにワタスは今61歳。間もなく62歳になりますが、道路を走っている60年落ちのクルマはそうそう見当たりません。人体は機械や自動車よりもはるかに精密で神秘的なモノですが、末期ガンを宣告されて改めて思うことは、人体のあらゆる機能がよくも60年もの間、大した故障も無くはたらき続けてくれたものだということです。クルマもある程度年数がたつとどこかにガタがでますし、車検では部品を取り換えたりしながら検査済証がでなければ継続して公道は走れません。

車検に相当するのが健康診断ですが、人体はそう簡単にパーツを取り換えることはできませんね。よってその分、今のパーツを大切にしなければなりません。また、そもそも壊れないような乗り方をしないといけません。クルマも常に凸凹道を高速で走ったりすればすぐにガタが来るのと同様、人体もまた丁寧に乗ることが肝要です。また、走行距離は年齢に比例するのではなく、人生の進み方です。仕事中心で生きてきた私にとっては仕事に費やした時間が走行距離と言ってもいいのかもしれません。せっかく買ったクルマを愛をこめて大事に乗ればもちろん耐用年数は延びるように、人体もまたせっかく親(神?)から貰った身体を愛を込めて大切に扱うことで耐用年数は延ばせるはずです。

その為には、身体に入れる燃料(食べ物や飲み物)ももちろん大事ですし、日頃からの乗り方や整備の仕方(メンテナンス)も大事です。ワタスは自分の身体を過信し、まさかこのタイミングで末期ガンを宣告されるとは思ってはいませんでしたが、よくよく振り返れば60年以上もの間、意識も無意識も含めて24時間はたらいてくれていた人体というものに感謝の想いを持ったことがありませんでした。年齢と共に衰えは多少感じていたものの、基本身体は動いて「当たり前」だと思っていたのです。でも考えてみれば60年経過して公道を走っているクルマが「当り前」でないように、60年経って走り続けてくれている人体は「当たり前」ではなく、「有難い」存在であると考えるのが妥当ではないかと今は想うようになりました。

 

どうせならポンコツ車になってスクラップされるのではなく、ヴィンテージカーとして公道を爽快に走ったほうが愉しいに決まっていますよね。

その為にも大事なことは、私は自分というクルマを良く知るということではないかと思っています。ハンドル(どこに向かうかという使命)やエンジン(能力)やアクセル(行動力)やブレーキ(制御力)もそうですし、どんなストレスをかけると壊れやすいのかを内観して知ることも大事なポイントです。そもそもそのクルマ(人体)に乗って今生はどこに行こうとしているのかという目的を知る事、そしてその為には自分という存在にもっと関心と感謝が必要なのかもしれないと思う今日この頃です。

もちろん人それぞれですから、そんな面倒くさいことなんか考えずに、好きなように生きて死んだらそれまで、人生は太く短くで結構だと思う人もいるでしょう。それも否定するものではありませんが、今は死にたくても簡単に死なせてもらえる時代でもありません。身体を壊し、周りに迷惑をかけながら不本意なまま長く生き続ける可能性の方が高いのです。私は今コックピットでメンテナンスに明け暮れていますが、間もなく仕上がり、そのヴィンテージカーを乗りこなすサーキットの大神(狼)と呼ばれるつもりです(笑)

 

ホ・オポノポについてはこちらのブログに詳しく書かれています→https://michirich.com/%E3%83%9B%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%8E%E3%83%9D%E3%83%8E/

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