わかりあえる時間。命日に蘇る55年前の記憶。
わかりあえる時間。命日に蘇る55年前の記憶。

今日は母の日ですが。


実はワタスの父の命日でもありますた。


もし生きていたら102歳ですが、32年前の今日70歳でこの世を去りました。
因みにワタスは醤油屋の3男坊として京都市内で生まれました。従業員3名程の典型的な零細企業で自宅兼工場。父は「たいしょう(大将)」と呼ばれ、なぜか副業?として税理士事務所の看板も上げていました。


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幼少期の生育環境が人格形成に影響を与えることは言うまでもありませんが。


ワタスは京都の西陣という街中、男3人兄弟の末っ子で商売人の家に生まれ、日々商人が行き来する仕事場兼自宅で従業員の人と生活をするという環境で育ちました。

愛犬デグと。恐ろしいくらい昭和の写真


ワタスの父の印象は大人になるまで無口で偏屈でケチで子供嫌いと思っていました。また、「計」という名前にコンプレックスがありました。当時、クラスが変わる時や新しい習い事とかで先生から始めて名前を呼ばれる時、「なんて読むの?」とか「はかり?」とか「変な名前ね。」なんてストレートに言われたこともあり、なんでこんな名前を付けたんだと恨んでいたことさえあります。商売をしていたからかどうかはわかりませんが、小さい頃はあまり可愛がられた記憶がありません。

そのことで覚えていることがあります。小学校1年くらいの国語の授業でお父さんのことを題材に作文を書きなさいということがあり、ワタスは何も書くことができなかったのです。時間切れギリギリまで白紙の状態で、最後は苦し紛れに隣の友達が書いていた内容をそのままパクって書いてしまったのです。それがウソの内容だったので親にその作文を見せることができず、その作文を工場のゴミ箱に捨ててしまったのです。

でもその作文を従業員が発見し、母親の元に届けられることになります。それできつく怒られた訳ではないのですが、それでも50年以上経った今でも未だに記憶に残っているのです。書けなかったことが父に対して、なんでよその父みたいに接してくれないのかと言う気持ちと少し申し訳ない気持ちが交錯し、ウソを書いた負い目と更にそれを捨ててしまったことがバレた罪の意識。


でもこれがトラウマになり、その後のワタスの人生に大きく影響を与えることになります的なドラマチックなことは少なくとも顕在的には見当たりません。父との触れ合いが少なかった分、親代わり?の従業員さん等にも囲まれてそれなりに賑やかで愉しい幼少時代を送っていたのでしょう。


これは父が死んでから知ったことなのですが、学生時代は弁論部に所属し、話しがとてもうまかったとのこと。無口ではなく、どちらかというと良く喋るタイプで、優しくて結構女性にもモテたとのこと。孫の写真を机に飾り、周りには生きがいだと言っていたとのこと。

実は結構ワタスと似ていたのかもしれません(え?お前は女性にはモテないって?)そしてもう少し早く父のことを知っていれば、結構ビジネスの話しや大人の話しで盛り上がったんだろうなと少し残念な気がしています。


ということで。


親子ですらその気持ちや性格を理解できるのに数十年かかり、死んでから知ることもあるわけですから、他人の性格や本質を短時間で理解することはとても難しいことなのかもしれません。それでも社会で生きていくということは、特に立場が上がれば上がるほど、圧倒的に他人との接点が多くなるのです。


これから人間関係で後悔しないためにも。


極力「このヒトはこんなヒトだ」という固定観念を持たないこと。できるだけこちらから心を開き、まず相手を理解しようとすること。


そして。


これから仲良くなりたいヒトや、関係を修復したいけどできないままのヒトがいるヒトは、死んでからでは遅いので勇気を出してこちらからコミュニケーションを取ること。


親父、今では「計」という名前、とても気に入ってます。


ありがとう。


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