哀悼。保険業界の恩人に捧げるブログ。
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勝ちたいというメンタリティ

ラグビーワールドカップ日本代表が下馬評を覆して強豪アイルランドに劇的勝利しましたね。

いやー、凄い。凄すぎる。

試合後のインタビューではキャプテンのリーチマイケルは、

「勝ちたいというメンタリティが勝因」

だと。もちろんフィジカルの裏付けがあってのことですが、確かに試合を見ていると日本は圧倒的にメンタルで勝っていたように見えました。

やはりスポーツでもビジネスでも「〇〇したい!」という目的や目標を明確にして、そこに向かっていく姿勢が大事なんだなと改めて認識させていただきました。もちろんそのプロセスでは様々な壁が待っていることでしょうが、その壁を乗り越えていくことでヒトは成長していくのではないでしょうか。

ワタスの人生を振り返ると、32歳の時に転職し、フルコミッションの保険営業の世界に足を踏み入れた時が最も「勝ちたいというメンタリティ」が強かった時かもしれません。

実は。

去る22日、そのキッカケをいただいた保険業界の恩人が亡くなりました。

保険業界の恩人

1991年2月、32歳でワタスは某カタカナ生保のライフプランナーとして保険業界に足を踏み入れました。入社したのは京都支社の第2営業所。当時働いていた職場に「ヘッドハンティングの電話です」と、1本の電話がかかってきて面談したのが始まりで。

その後CIPなる面接を数回繰り返し、それなりに悩んだ末に入社を決意したのが1990年の秋口でした。何しろフルコミッション(完全歩合)はやったら収入は青天井ですが、やらなかったら(できなかったら)収入はゼロの世界です。CIP(キャリアインフォメーションプログラム)という面接は「相互選別の場」ということで、いくらこちらが「やりたい」と思っても、最終的に会社側が「こいつでは無理」と判断されれば入社は叶いません。なにしろワタスはまだ32歳の若輩者でおまけに営業経験も無かったものですから、果たして自分で決意したのはいいけど入社が認められるのかはいささか不安でした。

結果的には「合格」の判定をいただき年を明けた2月からそこで働くことが決まりました。その、ワタスを保険業界に招き入れてくれたのが当時の京都支社長「貝谷嘉彦」さん(故人)でした(敢えて実名をお出しします)

貝谷さんが入社を決めてくれなければ、ワタスは保険業界にはいなかった可能性が高いのです。

恩人との想い出

最終面接はビデオカメラを回しながらの自己紹介でした。そしてその面接の最後に「好きな言葉はある?」と聞かれました。咄嗟に聞かれたので一瞬ためらいましたが、その時出てきたのが、

「美感遊創です。」

という言葉です。「美感遊創」とは「生活の中で出会うさまざまな美しさに感動し、遊び心を失わず、豊かな毎日を自ら創り出していくという生き方のことです(ググるとなんとサントリーウェルネスの企業理念になってました)。なぜその言葉が出たのかは記憶にございません(笑)

その時、貝谷さんは、

「美感遊創か。イイ言葉だね。ウチに来てがんばれば、まさにその美感遊創な生き方を実現できるよ!」

と共感し、入社を認めてもらいました。

それから約半年後の2月に入社してからの1か月は缶詰で研修で、その半分くらいは貝谷さんに研修をしてもらいました。そして無事試験に合格して2か月目から晴れて営業に出ることになります。

「ケイちゃん(と呼ばれていました)。まだうちの支社では初月で30件契約をいただいたLP(ライフプランナー)はいないんだよ。もしケイちゃんができたら僕が自腹で表彰してあげるよ。」

「は、はい・・」

なにしろ営業経験なしでしたので自信があるわけではありませんでしたが、「そんなん無理です」と断る根性もありませんでしたので曖昧な返事をするのがやっとでした(笑)また、研修では「C=C(コントリビューション=コンペンセーション」(貢献=報酬)というコンセプトがありました。これは顧客に貢献した者が報酬を得るという考え方です。

貝谷さんの研修では、「ほとんどの人は自分が加入している保険の内容を把握せずに掛け金を払い続けている。その掛け金を最後まで払うと家の次くらいに高い買い物になるんだよ。だから僕たちの使命は、まずは保険の目的を理解してもらい、その上でライフプランニングに基づいた必要保証額算出からのオーダーメイドの保険設計をすることでお客様に貢献をしていくんだよ。」と教えられていましたので、兎に角愚直にこの手法を、ベースマーケット(元々の知人)に伝えるだけだという考えで、日中は人に会いまくり、夜中まで手書きの設計書を作成し、その結果なんとか30件をクリアできました。

まさか本当にやるとは思っていなかったらしいです(笑)

その後ワタスは貝谷支社長の元で営業所長を4年間務めました。生産性が思うように上がらず、ライフプランナーに戻りたいと相談したこともありますが、それなりに全国トップクラスの成績も出せるようになり、京都で2つ目の支社を出そうということで、ワタスをその支社長(京都中央支社)に推薦していただきました。

その時もワタスの営業所25名の所属LPの中から、4人を営業所長として連れて行っていいよと大盤振る舞いをしていただき(通常は3人)、比較的順調なスタートが切れました。

そして5年支社長を務た後、ワタスは貝谷ブロック長(エリアの長)に辞意を表明することになります。当時、それなりの実績を上げている現役の支社長が退職をするなんてことは無かった時代です。

別れと再会

「貝谷さん、実はお話があります。」

「なに?」

「会社を辞めようと思います。」

「え、なんで?」

「乗合代理店として新たな組織を作りたいんです。」

もちろん最初は止められました。ただ、最後はワタスの想いが固いことを理解いただき、送り出していただくことになりました。それ以降、敢えてワタスは古巣の支社に顔を出すことを止めました。当時は代理店に移行する制度があり、生き方の選択肢として非難されるものではありませんでしたが、やはりLPチャネルから見れば貴重な戦力を奪う敵と見なされてしまうのでしょう。貝谷さんは関西の支社を統括する立場でしたので、敢えて刺激することを避けたかったのです(結果的にその後代理店移行制度はなくなることになります)

恐らくその後10年以上は、地下鉄の駅ですれ違いざまに挨拶を交わしたことがある程度で、まともにコミュニケーションすることはありませんでした。

でも時の流れは様々な諍いを溶かしてくれます。貝谷さんは常務に出世をされていましたし、ワタスはワタスでその保険会社さんとは代理店として太い関係にあり、業法改正のタイミングで出資をしていただくことにもなったタイミングで食事をすることになりました。

2016年4月京都にて(真ん中は先輩の矢沢さん)

昔から変わらずの明るく大らかで太っ腹な貝谷さんでした(笑)

また、退職される際には、その会社からのリクエストで送別会のビデオメッセージも送らせていただき、その後わざわざお礼の電話までいただきました。

哀悼の辞

貝谷さんへ

僕の保険業界での歴史は、29年前、貝谷さんとの出会いから始まりました。

僕がリクルートしたLPが所長や支社長になって、その人がまた所長や支社長を輩出して、たくさんのライフプランナーが採用され、またそこからたくさんの営業所や支社ができ、そしてたくさんの保険契約者が生まれました。

僕は袂を分けた裏切り者だったかもしれないけれど、僕の創った代理店も300名の組織になり、何人も社内結婚し、子供も生まれ、何よりたくさんのお客様との素晴らしい関係を築くことができました。

また、僕は乗合代理店を束ねる組織の長になり、たくさんの代理店経営者達と、この業界をもっと健全に、もっと顧客本位にしていこうと活動しています。

貝谷さん、そのすべての結果には貝谷さんの遺伝子が脈々と受け継がれているのです。

そして貝谷さんの遺伝子は、これから先も未来の世代へと脈々と受け継がれていくでしょう。

本当にお疲れさまでした。

心から冥福をお祈りいたします。

合掌

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